●新栄通商店街振興組合成り立ち

1950年代、人々は県内各地の未だ舗装もされていない土煙の舞う砂利道の脇に立つ各々のバス停からボンネットバスに乗り込み、まちぐゎーを目指した。なあふぁまちぐゎーに来る人達は皆生き生きとしていたに違いない。

開南バス停に着くと我れ先にバスを降りて、緩やかな下り坂の新栄通りを足早にそれぞれの目的地に向かった。

新栄通り商店街(現在のサンライズなは商店街)は、ほとんどがそうである様に戦後の闇市から始まり、人々に活力を与え続け那覇の戦後復興の礎を築いた。

通り会の名称は、「新しく栄えていく通り会」と言う願いを込めて、「新栄通り会」が1952年に発足された。沖縄全域、ひいては離島から人々が生活品や贅沢な品を求めて那覇のまちぐゎーに集まり、その名の通り新しく栄えて行った。その後の1955年以降は高度成長期の波に乗り豊かな商店街として成長し続けた。当時は1日に2万人が行き来する華やかな商店街だったと言う報告があるが、当時を知る人は決して驚かないであろう。古き良き時代、開南バス停でバスを降りて、多くの人達は三越百貨店や山形屋百貨店を目指し、新栄通りの坂道を喜々として歩いていったのであろう。希望に満ち、活気に溢れていた。帰りには、両手に荷物を抱えて坂道を上り、開南バス停を目指したのであろう。

高度成長期は、1973年まで続き、勢いが消えつつある中、1975年ダイエー那覇店が沖映通りに開店した。まちぐゎーの通り会は、日用品の販売を中心とする大型ショッピングセンターの存在に危機感を憶えた。1976年に大型店舗へ対抗すべく新栄通りは、新栄通り商店街振興組合と法人化したのである。

1986年からのバブル景気の影響を受け、1988年には商店街の高度化を唱い、最新鋭のアーケードの設置、カラー舗装化を実施した。同時に商店街の愛称を公募し「サンライズなは」商店街に名称を変更。しかしながら、大型店舗の増加、車社会へと変化しバス利用者は減少し、郊外へのスーパーの出店などによりまちぐゎー商店街の魅力が消えていってしまった。更に追い打ちを掛けるように、1991年にバブル経済は崩壊してしまい、すっかり客足も遠のいてしまった。

話は前後するが、1957年に国際通りに開業した大越百貨店は、1970年に沖縄三越と改称され多くの人々は開南バス停から新栄通り商店街を下り、平和通りを歩き、国際通りにある百貨店を目指したのである。

近年では当時の国際通りに軒を連ねた山形屋百貨店、三越百貨店を知る年齢層も減り、あの華々しい頃の思い出を共有出来る機会も減ってしまった。 しかし、レトロで落ち着いた商店街に魅力を感じる若い経営者が集まり始め、その当時からの経営者、おじぃ、おばぁと和気あいあいと空間を共有する、以前とは一味違う魅力を発信する商店街へ変わりつつある。

開南バス停

●開南バス停

1945年、第二次世界大戦は終戦を迎えた。

開南と言う地名の由来は、付近に建てられた学校名によるものである。1947年11月頃、この地から松尾(まつお)に向かう道途中に闇市(やみいち)が発生した。闇市取締のため、後に牧志(まきし)(現牧志公設市場(こうせついちば)一帯)に市場が開設されたが、市場への買い物や品物運搬などで、一帯の交通量が激増した。バス路線開通後は、「開南バス停」が設置され、特に島尻(しまじり)方面から市場や牧志への乗降所として賑わいを見せた。

開南小学校は、1952年(昭和27)に泉崎(いずみざき)へ移転したものの、バス停を始め、付近の病院・商店等が「開南」の名を冠し、戦後この一帯の地名として定着した。(那覇市歴史博物館より引用)

正に新栄通り商店街(現在のサンライズなは商店街)と共にあるバス停である。1950年代〜1970年代の期間が全盛期であったのであろう。当時の開南バス停は、人で溢れていた。次々にバスが到着し、沢山の荷物を抱えた買い物客がバスに流れ込んで行った。その流れに上手に乗らないと目的のバスに乗れない程であった。活気に溢れ、希望に満ちていた。

当時の古い写真を見ると違和感があるのは、戦後の沖縄は右側通行だったせいである。バス停に並ぶバスが那覇高校側から見ると現在では車両の後部が見える筈がこちらを向いているのである。1978年7月30日に日本本土と同じ左側通行へと切り替わった。

その頃から大型店舗の増加、車社会へと変化しバス利用者は激減し、 すっかり客足も遠のいてしまった。

ゲームインなは

●ゲームインなは

1993年~2019年まで営業していたゲームセンターです。当時の小中高校生の遊び場として親しまれました。ゲームの国際大会で優勝しプロになったに人もいます。タバコの匂いのする昔ながらのゲームセンターでした。

●那覇劇場

居専門の演芸場。
那覇劇場は、1949年9月に演劇専門館として建てられた。当初は露天の劇場であった。那覇劇場は他館が映画専門館として興行する中、戦後旗揚げされた多くの劇団が公演を行い、芝居のメッカとして人気を博した。また、学芸会やボクシングの試合など各種催し物会場にも使われた。1969年に惜しまれ乍ら閉館した。

●丸国マーケット

戦後、那覇の繁華街は開南一帯にあり、その中心が丸國マーケットでした。沖縄戦で一面焼け野原になった那覇市、復興のエネルギーを感じます。その後、繁華街は国際通り周辺に移り、この付近は寂れてしまいましたが、丸國マーケットは今も残っています。(Jugem ブログ 浮き島通りの丸国マーケット 2013/10/7より引用)

みつや書店

●みつや書店

新栄通り商店街(現在のサンライズなは商店街)にあった本屋さん、みつや書店。すでに廃業しているが、商店街の中心にあり、1988年にはアーケードの落成式典などが行われた華やかな場所の一つだった。 当時は、文教図書や安木屋書店に続いて開業、中高生が参考書を求め、芸術家が画材を求め集まり賑わった。2005年閉店した。

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